教育者の実態を暴露します

かなり前のことになりますが、我が子がまだ学生だった頃、学校行事に関するお知らせが届きました。

次のような通達でした。

当日は給食がありませんので、必ずお弁当を持たせてください。会場付近のコンビニで買うことはできません。

その手紙を奥さんが声に出して読んだものだから、つい僕は大声を出してしまいました。

「ゔぇーっ?」

文字では表せないような奇声だったのではないでしょうか。

さて、何に驚いたのでしょうか?

別に、文面におかしな点もありません。

答は、

できません

この5文字です。

「ちょっと待ってよ。できませんってどういうことよ。この宇宙にできないことなんて存在しないんだよ」って職員室に怒鳴り込んでいきたくなりました(笑)

それぐらい驚いて、というか呆れてしまいました。

教職者と呼ばれる者たちが無知なことについてではありません。そんなことは承知の上ですから。

それよりももっと大事なお話です。

たしかに、通学時に現金を持たせると、いろいろとトラブルはあるでしょう。でもね、「買えません」はないでしょう。何ですか、この言い方は?

  • お店の人が売らないから?
  • 突然、空襲が始まり店が破壊されてしまうから?
  • ちょうどその日に、コンビニ強盗が押し入ることが予知できたから?

何があるっていうんですか、買えるに決まっています。

正しくは、

近くのコンビニで買うことを禁止します

とするべきなのです。

失くした、落とした、盗まれた。
子どもですから、いろいろとあるでしょう。それは仕方がありません。

そういったやむなき理由があって仕方なく禁止するのです。堂々と禁止しなくてどうするんですか。

うるさい保護者を警戒して、きつい表現は避けようとでもしているのでしょうか。

こんなことだから威厳がなくなり、良識に欠ける保護者をつけ上がらせるのです。

たまたま、この通達を書いた先生だけが、この程度の認識だったという言い逃れはできません。

なぜなら、学校が配布する文書はきちんと校閲されるということですから。以前、奥さんがPTA絡みの文書を作成したときも、厄介な校閲が必要でした。

学校全体の見解として発行されているのですから、教育に携わる者全体の意識が問われてしかるべきです。

たかがその程度のことと考えて流してしまうこともできますが、「できません」という他人事のような表現は、単なる責任逃れ以上の問題です。

そういう表現をする者の、人生に対する意識の持ち方が問題視されるべきなのです。

いってみれば、

自分が禁止するという任務から逃れるために、「買えない」などというとんでもないホラを吹いている

わけですから。

まるで、「どこかでそう決められているから」とでも言わんばかりです。

こんなクラゲのような生き方をしている者が、教職についているというのが現状です。

そのような教育者(と呼ばれているだけの者)たちは、今すぐ次のことを知るべきなのです。

「人生とは、十分に生きる価値があるものだ」ということを自分の生き方を通して子どもたちに伝えること

それが、教育者の使命である。

投稿者プロフィール

ほしのみのる
ほしのみのる高次元ライフコーチ
いつも後頭部から50cm上にいる自分を意識するようにしています。自分が見たものに反応するのではなく、何かを見ている自分を意識する生き方ですね。